輪郭

病気のこと、生活のこと、仕事のこと、日常のこと。

研究「しか」なかったのか―病気になるまでを振り返ってみる―

昨日、退社するとき上司と一緒になって、途中まで一緒に帰った。

そこで話題となったのが、仕事と研究について。彼女は、昨年まで仕事をしながら大学院に通っていた。忙しい中でも通えたのは「(いい意味で)仕事があっても研究に逃げることができて、研究があっても仕事に逃げることができた」と仰っていた。ちなみに自分は研究を途中で断念して、就職することを選んだ人間であり、彼女もそれを知っている。自分ができなかった両立をできたことは本当にすごいことだと思う。それを告げたところ、彼女から「あなたは、そのときは研究しかなかったからでしょ?(つまり、逃げ場がなかったからでしょ)」と言われた。その言葉を受けて、本当に自分には研究「しか」なかったのかということを考えてしまった。

ここから、自分のことを振り返ってみようと思う。

自分は、物心ついたときからお世辞にも精神的に強いとは言い難かった。不安や抑うつが強くて、学校や授業を休むこともたびたびあった。大学に入ってからも学内の学生相談所でカウンセラーさんのお世話になっていた。

はっきりと「頭の中で声が聞こえる」と感じたのは高校一年と大学二年のときだった(その時の詳しいエピソードは今は書きたくないので書かない)。それが幻聴だったのかはわからないし、当時は幻聴とも思わなくて、むしろ強迫性障害のようなものかと思っていた。

大学三年のときに精神科に通いだしても、授業もサークルもアルバイトもはたから見れば問題なくできていたと思う。このころはまだ病名はついておらず、薬も飲んでいなかった。

大学四年になって研究室に配属されることになった。興味のある分野だったし、自分にしてはやる気のある状態だったと思う。でも、環境が変わったせいか、そのころから些細な物音に敏感になるようになっていった。誰もいないのに物が勝手に動いたり落ちたりするような音が聞こえるという感覚が常に付きまとうようになった。それを主治医に相談したところ、いわゆるユース向けの精神科外来の受診を勧められた。そこで検査を受けて、「こころのリスク状態」、すなわち「人よりも将来的に精神疾患にかかりやすい状態」と診断された。大学四年の始まり、まだ自分は21だった。

検査を受けてよかったか、と聞かれれば、迷うけれどイエス、と答える。多くの先生方に診察していただいて、自身の状態を知ることができたし、そのデータが治療に役立てばそれはそれでよかったと思う。それに、だからこそ今自分ができる研究や勉強を頑張れた面はあったと思う。実際、卒論レベルだったけど、研究は楽しかったし、人間関係にも恵まれていたし、今考えれば浅はかな部分もあるけど、将来職業にしてみたいと当時の自分が思うには十分だった。

でも、検査を受けて、やっぱり怖かった。「自分は神経にバクダンを抱えている」という意識が頭から離れなくて、いつそれが爆発するのかという不安や恐怖を常に抱えていた。検査を受けなくてもそういう不安はあったと思う。けれど、段々眠れなくなったり食事が食べられなくなるという症状が実際に起こり始めて、不安はどんどん大きくなっていった。

それを周りの人にきちんと伝えられれば良かったのだと思う。でもそれができなかったし、自分でも発症を避けたい、考えたくない、一日でも長く「健常者」でいたいという気持ちが強かったのだと思う。それに、病気になってからの生き方なんて全く想像ができなかったし、甘えたことを言うけど誰も教えてくれなかった(障害者手帳も障害者年金も特例子会社のことも当時の自分は何一つ知らなかった)。どう生きていけばいいかわからなかったし、そんなことを考えたくなかった。

 

進路についてまとめると、自分が競争社会で生きていける自信がなくて(注:研究職も大変な競争社会です)、企業に就職する自分がどうしても想像できなくて、今ある研究を楽しいと思える自分には、目の前の研究のことしか考えられなくて、それが「研究しかない」という考えに傾いていってしまったのかな、と思う。休学したり、他の生き方を考える時間をたっぷり―本当にたっぷり―用意しても構わなかったのにと考えるとつくづく自分の視野が狭かったんだなと思う。

 

もしこれを読んだ統合失調症などの精神疾患を抱えた方やこころのリスク状態にある方がいたら、知識―医学的知識は言うまでもないけれどそれ以上に社会的あるいは福祉学的な知識―のある方々の力を借りてほしい。これから社会は精神疾患の早期発見に向けてワーカーさんの介入が始まると思うし、そうした方々の存在が重要になってくると思う。けれど、今はまだ効果を検証している段階で支援者の存在は十分でない。支援を受けることに困難を伴わない社会になることを願って止まない。